いつの間にか長くなったLA暮らし

ロサンゼルス(LA)に住み始めて、いつの間にか40年以上が過ぎました。仕事と趣味を楽しみながら、忘備録としてつらつら書いています。

博物館網走刑務所  やっと会 えたね(前)

今回の旅行は、3年前にする予定だったものだ。


コロナで、アメリカ国籍の私たち夫婦は日本に入国ができなくなり、


観光目的の外国人に対する規制がなくなった今年、やっと来ることができた。




博物館網走刑務所は、テレビでもよく紹介されていて、


今度北海道へ行った時は是非訪れたいと思っていた。

この看守さんから始まって、


中の様々な施設の中にいるマネキンさんたちがとてもリアルで、


行く所行く所でびっくりする。



網走監獄がこの北海道の北のはずれに創設されたのは、


囚人による旭川と網走を結ぶ中央道路の開拓のためだったという。


中央道路とは、囚人たちが建設した網走から北見峠までの間(約160km)のことで、


その過酷な現場で多くの犠牲者を出したことから、囚人道路ともいわれている。


当時、明治政府は、迫りくるロシアの脅威に対応して、


北海道の幹線道路を早急に完成させる必要に迫られ、


労働力として、全国から重罪の囚人たちを集めたそうだ。


中央道路開発のために繰り出された囚人は1200名。


あまりにも短期間で過酷な労働環境と冬の寒さのため、


200名の囚人たちの命がなくなったそうだ。



「監獄歴史館」では、中央道路の開削をテーマにした


7分間の臨場感あふれる映像展示をメインに、


監獄の歴史や囚人たちの暮らしぶりを知ることができる。


1本の丸太を数人で枕として使用し、朝は看守がその丸太を叩いて


囚人たちを起こしたと言われている。



厳しい生活の中では食事が一番の楽しみで、


気性の荒い囚人たち間での揉め事が多い日々でも、


お正月とか、お祝い事とかがある時には、甘いお饅頭とかお餅などが出されたので、


そういう時にはみんな大人しくしていたそうだ。


この写真を撮るのに、カメラがマネキンさんたちを人と認識して、


こんな風になっていた。😆😆



囚人たちだけではなく、看守さんたちにとっても厳しい生活だったようだ。



看守さんたちの住宅   4畳半ほどのリビングと寝室だけ
 


家族単位で生活していたそうだ




キッチン



囚人たちが日帰りできない場所で作業した際に寝泊まりした「休泊所」

移動するたびに「休泊所」を解体し、また設置するという、別名「動く監獄」


後姿の囚人さんたち、何をしているかというと、立ったままご飯を食べている。


おかずは、梅干しと漬物だけ。


そんな粗食で、厳しい労働に耐えるのは辛すぎる。脱獄したくもなるだろう。


でも、たとえ逃げても、厳しい寒さの中では食べ物もなく、すぐに連れ戻されたそうだ。


彼らが着せられている朱色の囚人服は、脱獄しても見つけやすいようにだそうだ。



刑罰執行中



独居房


極寒の地の簡素な作りの建物で、床は板張り。暖房もない生活だ。


いくら重罪人とはいえ、これほどの扱いはどれほど辛かったことだろうと想像に堪えない。




受付で貰った地図を頼りに、1番から順番に回っていく。


ゆっくり回ると2時間以上かかる。



最後に行く所に、会いたかった彼がいる。

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